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● アポクリファ(外典) この数々の書は、おもに、紀元前の最後の三百年の間に作られた産物です。 それは、預言が書かれることが止んでいた時期でした。 これらの書は、アレクサンドリア(エジプト)のユダヤ人たちからは、神聖な文書の一部として受け入れられており、第二エスドラス書は例外として、七十人訳聖書(LXX)の古代の写本の中に見出されます。(注1) 敬虔なユダヤ人たちは、エズラのもとで旧約聖書の正典を成立させた際、アポクリファを主によって霊感されたものとしては受け入れませんでした。 ヨセフス(紀元100年)は、彼の時代にこれらの書が「聖なるもの」とは、みなされていなかったことを確証しています。 彼は、正典は紀元前425年に完了したと述べています。(注2) このアポクリファは、背教のローマ(西方)教会において徐々に評価を高めていき、トレント会議(1546年)では、そのほとんどを正典であるとしました。 その決定をした際、カトリック教会はアポクリファを神聖なものとみなすことにおいて、アレクサンドリアのユダヤ人たちの側に付いたのです。 思い起こしてください、マリアが「クリスチャン」と呼ばれる人々から三位一体の神の第二位格として崇められたのが、アレクサンドリアにおいてであったことをです。 ヒエロニムスはアポクリファを拒みましたが、それが今やローマ・カトリック教会によって彼によるウルガタ聖書の中に取り込まれているのです。 ● 外典を含み、「ヨハネの黙示録」を排除する写本 新約聖書の中では、だれも、アポクリファへの言及も、アポクリファからの引用も、一度も行ってはいません。 イエス様はアポクリファには一度も言及なさいませんでした。 もし、それらの書が旧約聖書に属するものであったとすれば、主がそのことを言われなかったのは、なぜでしょうか? 旧約聖書は、イエス様がお生まれになるよりずっと前に正典として認められていたのです。 それなのに、オリゲネスのヘクサプラの第五欄には、旧約聖書の外典(アポクリファ)が含まれています。 バチカン写本とシナイ写本にも、旧約聖書の本文の一部としてアポクリファが含まれています。 (その新約聖書には、「バルナバの手紙」や「ヘルマスの牧者」などの外典的書が含まれています) つまり、「最も正確なギリシャ語本文」とされているはずのバチカン写本に、アポクリファも外典的な書も含まれているのです。 しかし、アポクリファも外典的な数々の書も、正典とされたことはなかったのです。 それなのに、私たちは、バチカン写本の証言を、それ以外の何百ものギリシャ語写本より権威あるものとして受け入れることを期待されているのです。 思い起こしてください。バチカン写本は「ヨハネの黙示録」を排除しており、「神秘、大バビロン」、「七つの頭とは、淫婦が座っている七つの山である」、「その女は、地上の王たちの上に支配する、あの大きな都である」等を省いているのです。 そのような内容を告げている箇所を省きたいと思うのは、どういう宗教団体でしょうか? 「キリスト・イエスの再臨」や「サタンの敗北」について非常に明確に、そして力強く述べているこの書が、サタンの攻撃の大きな標的となるのは、驚くべきことではありません。 |
★バチカン写本の異端事例 |
● 『トビト書』の事例 アポクリファに関して、たとえば、『トビト書』が神によって霊感された書ではないことが、どうしてわかるのでしょうか?
その書では、「トビト」がたまたま、スズメの糞によって盲目にされました(二章)。 彼は、「ラファエル」という天使(自分の名前などを偽っている天使)と付き合っています(三〜六章)。 アザリア(ラファエルの偽名)はこう教えます。 「魚の心臓と肝臓を焼いて生じる煙が、悪霊どもを撃退して追い出してくれるだろう。 魚の胆のうが、盲目をいやしてくれるだろう(六章)。 施し(良い行い)が、すべての罪を清めるのだ(十二章九節)」 しかし神のことばは、イエス様が、アダムのすべての子孫の罪のために、ご自分のあがないの死と復活において、ただ一度の完了したみわざによって、そのことを成し遂げてくださったと教えています。 神のことばは、人間は神の恵みにより、キリスト・イエスへの信仰を通して、ただで与えられる贈り物として救われる(エペソ2・8)のであって、私たちが行った義の行いによるのではない(テトス3・5)と、はっきり述べています! さらに、聖書によると、悪霊を追い出すことは、イエス様の御名にある力と権威によってのみ達成されるのです。 ところが、オリゲネスによれば、トビト書は、四つの福音書が霊感されているのと同じ意味で「霊感されている」のです。 |
★バチカン写本・シナイ写本の異端事例 |
● 『ヘルマスの牧者』の事例 「ヘルマスの牧者」という外典的な書がいいかげんなものであることは、聖書と比べると、すぐにわかります。
たとえば、ヘルマスの第三書(たとえ話)には、一人の天使(牧者)が語ることばとして、 「人はだれも、このたとえ話で述べられている四人の処女の服を着せてもらわなければ神の国に入ることはできない」と書かれています。 さらに、この四人の処女は、「聖なる霊たち」と呼ばれており、彼女たちの服とは、彼女たちの名前のことです。 そして、「人は、この四人の処女の服をも受けなければ、神の御子の名を受けるだけでは何の役にも立たない」と書かれています。 こうして、この話は、イエス様の福音に付け加えてもいるし、それと矛盾してもいます。 ところで、人間に対する、非常に巧妙な形態の異端とは、いつでも、「イエス、および、○○」という性質のものです。 救いというテーマを扱う際、「イエス様だけ」でなく、イエス様に何かを付け加えるものは何でも、単なるまちがいではなく、それは異端です。 人間が福音に「さまざまな糸」を付け加えて福音を飾ろうとする時、いつでもその福音の力を弱めてしまうことになるのです。 これらの数々の書の中で、価値のある書は、第一・第二マカベア書だけです。それらは旧約聖書の聖典には入っていませんが、ほかの書にあるような神話的で、いいかげんな、聖書と矛盾するようなものとはちがって、マカベア書に見られるデータはかなり信頼できる歴史的記述(紀元前一〜二世紀の、ユダヤ人たちへの抑圧、および、専制と迫害に対するマカベアらの反乱など)であるように見えます。 …………………………………… (注1)Floyd Nolen Jones,"The Septuagint: A Criticla Analysis",pp.10-54 (注2)Josephus,"Against Apion",(1),8 |
《出典 : Floyd Nolen Jones,"Which Version Is The Bible?"[2006年] 》
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★バチカン写本・シナイ写本の異端事例 |
● 『バルナバの手紙』の事例 『バルナバの手紙』には、こう書かれています。
プロテスタントのクリスチャンたちにとっての正典である旧約聖書39巻にも新約聖書27巻にも書かれていないことが、ここには書かれています。モーセという名前を使っていますが、上記の内容はモーセ五書(創世記から申命記まで)には書かれていないことや、聖書全体の教えに反することです。 『外典』に書かれているこれらのことばは、聖なる神のことばでしょうか? これらは、聖霊による霊感を受けて書かれたみことばでしょうか? もし、敬虔なクリスチャンの聖徒が教会の礼拝に出席し、バチカン写本とシナイ写本が開かれ、次のように告げることばを一言でも聞くとすれば、どうでしょうか?
もし、そのようなことを聞いたなら、天国に行きたいと真剣に願う聖徒には、すぐにそこから離れ去ることをおすすめします! これらは、66巻の正典から成る聖書を信じるクリスチャンたちにとっては、異端の教え以外の何ものでもありません! |
■さらに深い理解のために(英語)… フロイド・ノレン・ジョーンズ博士の著書 → Which Version Is The Bible?[2010年版] p.113~[PDFファイル] シナイ写本について(ステファン・P・ウェストコット博士:Reformation国際神学セミナリー) → Codex Sinaiticus [pdf] ラテン語ウルガタ聖書について(C.P. Hallihan) → The Latin Vulgate(pdf) |
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●歴史Q 偽造された写本
1 偽造写本の"出現" 2 白いシナイ写本・ 3 だれがシナイ写本を 4 色付けされたシナイ写本 5 シナイ写本の意図的な削除 6 偽造写本『2427』の正体 7 ティッシェンドルフが持ち去った 8 ティッシェンドルフに抜き取られた 9 シナイ写本・バチカン写本_ 10 バチカン写本・シナイ写本の構成 11 外典を含むバチカン写本・シナイ写本 12 マルコ16・9〜20が無い写本 13 2写本の検証1 14 2写本の検証2 |
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聖書の歴史V 偽造写本から"ねつ造"された |
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