聖書の歴史CX-3 聖書の歴史 目次 

《神の摂理TR

3 自然主義的本文批評を広めた人々


 これまでのページで、次のことが歴史的にわかってきたはずです。
 すなわち、自然主義的な本文批評の論理は、
  • 完全な現代主義に通じており、
  • 聖書本文自然主義的な見方に通じており、
  • 聖書全体についての自然主義的な見方にも通じており、
  • クリスチャンとしての信仰についての自然主義的な見方にも通じていることです。
エドワード・F・ヒルズ  


神学生たちへの影響
 かつては保守的であった多くの神学生たちが、この無情な論理に駆り立てられて、すっかり現代主義的な考え方になってきました。
 ただし、彼は自分がクリスチャンとしての信仰から逸脱してしまったとは認めません。
 というのも、彼の見方からすれば、『自分は逸脱していない』と思っているからです。
 おそらく、どこかの保守派の神学校でウェストコットホートタイプの自然主義的本文批評を初めて学び、その道を歩み始めましたが、その同じ道を、彼は、はるか遠くにまで旅をしてしまったのです。

一貫性のない教授たち
 以前は正統派であったはずのその教授たちには、不思議なことに、一貫性がありません
 彼らは新約聖書本文批評の分野では自然主義的手法を使い、その後、それ以外の聖書研究の分野のことになると、まるで熱すぎて手に負えないものであるかのように、その手法を捨てるのです。
 きわめて非論理的になことです。

非一貫性ルーツ『中立的立場』
  1. 自然主義的弁証論…『中立的立場』からスタートすることの間違い

     聖書、特に新約聖書の本文批評に関する非一貫性は、三百年もさかのぼる十七世紀後半にその歴史的ルーツがあります。
     当時、理神論者たちおよびその他の不信者たちが新奇な提案を持ち出し、こう言いました。

    「我々の考え方を、キリスト教が真実であると決めつけることから始めないようにしよう。
     むしろ、プロテスタント、カトリック、ユダヤ人、イスラム教徒、および、あらゆる宗教と信条のすべての善良な人々が合意する真理だけを、我々の出発点としよう。
     それから、共通の合意というこの中立的プラットホームの上に立って、我々はすべての宗教および信条を、理性という光によって調べることにしよう」

     当時、正統派であったプロテスタントの学者たちが、この提案を根本的に非キリスト教的なものとして拒むことをせず、このチャレンジを受け入れてしまったのです。
     …
    リベラル化の流れ》

    1. 非キリスト教的要素を受け入れた保守派の学者たち
      • あらゆる宗教と信条合意が出発点(中立的立場)
      • 人間の理性最高の判断規準
      矢印
    2. 保守派神学校・大学・神学生のリベラル化
      • 自然主義的手法新約聖書本文批評
      • リベラル派の『教科書』の採用
      • 聖書への疑い・否定・不可知論…etc.
      矢印
    3. 保守派教会・牧師・信者のリベラル化
      • 『聖書の特別な摂理的保持』信じない
      • 『奇跡』信じない
      • 『異言や預言』信じない
      • 『啓示』信じない
      • 『悪霊』信じない
      • 『地獄』信じない…etc.
    一貫性のない人
    (↑クリックで拡大) 参照→ 一貫性のない人

     しかし、不幸なことに、そういう正統派の指導者たちは、自分たちが裏をかかれて(出し抜かれて)きたことに気付きませんでした。
     そして、そういう中立的な出発点採用するという行為そのものが、自分たちが擁護しようとしていた信仰をすでに否定してしまっており、その後彼らがどんな論議を推し進めても、それが一貫性のないものとなることを確実にしてしまったことにも気付かなかったのです。

  2. バトラーパレイの弁証論体系の影響

    • ジョセフ・バトラー(1692年〜1752年)およびウィリアム・パレイ(1743年〜1805年)は、中立的弁証体系の本の二人の著者たちでした。
      この体系は、十九世紀および二十世紀初期に多くの保守派の神学校で、あの宗教改革の信仰とともに教えられました。
       キリスト教に対するこの二つのアプローチの根本的相違正しく認識されていなかったのです。

      • すべての善良な人々が合意する共通の真理、『理性』を出発点とするアプローチ
      • すべての人(善人でも、悪人でも)が合意すべき神の真理『啓示』を出発点とするアプローチ

       バトラー(後にダーハムの司教となる)は、1736年、彼の有名な『宗教のアナロジー』を出版しました。
      その本は、キリスト教と自然の諸事実の間に存在するアナロジー(類似性)を取り扱っているものでした。
      その本は二部に分けられており、第一部は『自然宗教』、すなわち、聖書に啓示されているのと同じく自然の中に啓示されている宗教的真理を扱っていました。
       第二部は、『啓示された宗教』、すなわち、聖書にのみ啓示されている宗教的真理を扱っていました。
       この本の目的は、理神論者たちおよびその他の不信者たちに、キリスト教の教理の中に見出されるのと同じ困難さが、自然の諸事実の中にも見出されることを示すことでした。
       バトラーは、こう主張しました。
      キリスト教は、少なくとも、理神論あるいは、それ以外のどんな形の不信仰とも全く同じ蓋然性[がいぜんせい]のもの(ありそうなこと)である。
      それゆえ、少なくとも蓋然性(ありそうなこと)という土台の上にキリスト教を受け入れるのが賢明である。

      ただし、バトラーは自らの死の床で、キリスト教を一つの蓋然的なこととして受け入れることはできず、真理としてのみ受け入れることができることを認めるに至り、ヨハネ6・37を繰り返し唱えながら勝利の死を遂げたと言われています。

    • パレイ(イギリス北西部カーライルの大執事)は、1794年、『キリスト教の証拠』を出版しました。
      それに劣らず有名なのが、1802年に出版されたパレイ著の『自然の神学」でした。

  • バトラーパレイのこれらの著書は、十九世紀を通じて、イギリスやアメリカの数々の大学や神学校で教科書として使われ、その後の弁証論の著作のためのモデルとなりました
  • けれども、バトラーパレイ弁証論体系は当面はよく役立ちましたが、長い目で見れば、クリスチャン信仰に有害な影響を及ぼしました。
     なぜなら、それはキリスト教を真理としてではなく、単なる一つの蓋然性(ありそうなこと)として提示しただけであったからです。
  • しかも、それはクリスチャンの思考の出発点を、不信者たちの気まぐれな考え(思いつき)に依存するものとしました。
  • というのも、バトラーパレイの体系によれば、すべての人が合意する真理の上に、私たちのクリスチャン信仰の擁護を築いているからです。
  • そして最終的には、バトラーパレイの弁証論体系は、蓋然性(ありそうなこと)を強調し、不信者たちとの共通の出発点を強調することにより、正統派のクリスチャンたちに、聖書の本文を、不信者たちがそれを取り扱うのと同じ方法で取り扱わなければならないと考えることを奨励したのです。
  • したがって、バトラーパレイの弁証論体系は、自然主義的な本文批評を正統派のキリスト教界に広めることに大きく貢献したのです。

《出典 : The King James Version Defended 第三章 エドワード・F・ヒルズ著》


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さらに深い理解のために(英語)
The King James Version Defended 第三章 3a,bエドワード・F・ヒルズ博士著
The history of naturalistic textual criticism(自然主義の聖書本文批評学の歴史)
さらに深く学ぶためのリンク集



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