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W 信仰破壊システム 2日本語聖書改ざん箇所5-1

カトリック不都合な語の排除1

ローマ・カトリック教会に不都合な箇所の改ざん隠滅

 聖書の改ざん行為に関わる宗教団体は、自らの団体の教理反する不都合な語句を排除し、その教えに有利な内容に改ざんすると考えるのが自然です。
 また、その団体やメンバーたち、特に、指導者たち(聖職者たち)が行ってきた(あるいは行っている糾弾するような語句も削除したりするはずです。
 なぜなら、そういうのことで自らが非難されて、自らを窮地に追い込むことのないためです。
 WH/UBS/NA本文に基づく聖書に見られる改ざん事例をいくつか見ることにしましょう。


告解』と赦しに関する改ざん

 ヤコブ5・16
  • 「あなたがたは互いにあやまち告白していなさい
    そして、互いのために、いやされるように祈っていなさい」TR 新約聖書
  • 「ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに言い表し、互いのために祈りなさい」新改訳 2017
  • 「だから、主にいやしていただくために、告白し合い、互いのために祈りなさい」聖書協会 新共同訳)

 「あやまち」(過失、まちがい、ミス)が「」に置き換えられています。
 この両者は異なるものです。WH/UBS/NA本文に基づく聖書のことばに忠実に従う人々は、自分での悔い改めの祈りをするだけではいけないことになり、だれか人間に自分の言い表さなければならい告白しなければならないことになります。
 ローマ・カトリック教会で行われている『告解』では、信者は『告解室』に入って司祭や神父に自分の罪を告白し、人間を通して神の赦しを受けられるとされています。
 しかし、使徒ヨハネはこう教えています。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら彼は忠信で正しい方であられ、私たちに対してそれらの罪を赦し、私たちをどんな不義からも清めてくださいます」(第一ヨハネ1・9)

 すなわち、神に自分で罪を告白すれば、すぐにその場で赦していただけるのです。
 したがって、だれにも自分の罪を言い表したり、告白したりする必要はありません。
 WH/UBS/NA本文に基づく聖書のヤコブ5・16は、そういうローマ・カトリック教会の『告解』支持しているかのように改ざんされています。


行い』の教理に関して不都合な語句の隠滅

 黙示19・8
  • 子羊の婚姻の時が来て、彼の妻が自らを備えたのだから。
     そして彼女には、清くて輝きのある亜麻布をまとうことが許された。
     なぜなら、その亜麻布は聖徒たちのだからである」TR 新約聖書
  • 「花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。
     その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである」新改訳 2017
  • 「花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである」聖書協会 新共同訳)

 「」が「正しい行い」に置き換えられています。
 この箇所は、天国での子羊の婚姻の時(7節)に、携挙された聖徒たちに「義の外套」をまとうことが許されることを述べています。
 聖徒たちがまとう義の外套」については、イザヤ61・10にこう記されています。

「私は、イェホバにあって大いに喜ぶ。私のたましいは、私の神にあって歓声をあげる。
 なぜなら、彼が救いの衣を私に着せてくださり、義の外套まとわせてくださるからだ。花婿が、かぶり物を付けるように。また、花嫁が宝石を身に着けるように」(イザヤ61・10)

 ここでは、「義の外套」は「救いの衣」でもあるとわかります。
 人は何かの行いによって救われるのではなく、イエス・キリストへの信仰によって救われ、義とされるのです。
「彼の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないを通して、全くの贈り物としてとされるからです。…
 人は律法の行いなしに信仰によってとされると私たちは考えるのです」(ローマ3・24、28)

 正しい行いや良い行いは、救われた後の結果であって、救いの条件や原因ではありません。
 ところが、ローマ・カトリック教会や一部のプロテスタントの教会は、人が救われるためには行い必要であると教えています。
 この黙示19・8で、「天国で聖徒たちがまとうことを許されるのは、聖徒たちの正しい行いである」とすることは、彼らの「教理」にとっては好都合なことかもしれません。
 けれども、それは偽りの教理です。
 WH/UBS/NA本文に基づく聖書は、この箇所で「行い」に置き換えることにより、この偽りの教理を読者に印象付けています。


 ローマ11・6
  • 「恵みによってであるなら、もはや行いによるのではありません。
    もしそうであるなら、その恵みは、もはや恵みではなくなります。
    行いによるのであるなら、それは、もはや恵みではありません。
    もしそうであるなら、その行いは、もはや行いではありません
    TR 新約聖書
  • 「恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。
    そうでなければ、恵みが恵みでなくなります」新改訳 2017
  • 「もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。
    もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります」聖書協会 新共同訳)

 「行いによるのであるなら、それは、もはや恵みではありません。
 もしそうであるなら、その行いは、もはや行いではありません
」が削除されています。
 これも、ローマ・カトリック教会の「行い」についての教えに不都合と思われる箇所を改ざんしている事例です。
 改ざんされた聖書は、そういう間違った教えや行為可能となるように変えられています。


幼児洗礼に関して不都合な語句の隠滅

 使徒8・37
  • ピリポは言った。
    『もしあなたが全き心から信じているなら、よいのです』
    彼は答えて言った。
    『私はイエス・キリストが神の御子であられると信じています
    TR 新約聖書
  • 「(本文中に入れられてない)」新改訳 2017
  • 「(本文中に入れられてない)」聖書協会 新共同訳)

 この37節が丸ごと削除されています。
 WH/UBS/NA本文の編集者たちは、『私はイエス・キリスト神の御子であられると信じています』と全き心から告白することができない人々です。
 ですから、彼らにとって非常に不都合なことばの一つであり、彼らはこれを消し去ったのです。
 それだけでなく、この箇所は宦官が水のバプテスマを受ける際の条件に関するやりとりです。
 受洗者が「全き心から信じているなら、よい」のであれば、ローマ・カトリック教会で行われている『幼児洗礼』は、この条件を満たしていないことになります。
 ローマ・カトリック教会にとって、この節は不都合な箇所であり、削除されるべき箇所なのです。



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