■(1)キリストを「偽り者」としている本文事例…ヨハネ7・8 《聖書本文の検証 ヨハネ7・8参照》
★TRの読み方 :《ギリシャ語》「ウーポ」(まだ…しない)
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「私は、まだこの祭りには上って行きません」(TR 新約聖書)
- 「我は未だ此の節会に上らじ」(新契約聖書)
- 「I go not up yet unto this feast」(KJ版聖書)
★非TR聖書本文の読み方 :《ギリシャ語》「ウーク」(…しない)
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「わたしはこの祭には行かない」
- 「 I do not go up to this feast」(NAS)
- 「わたしはこの祭りに上って行きません。」(新改訳聖書2017)
- 「わたしはこの祭りには上って行かない。」(新共同訳聖書)
《問題点》
実際にイエス様はその祭りに上って行かれた(しかも、ご自分がそうしようとしておられることを自覚しておられた)ので、非TR聖書本文は彼を偽り者としています。
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■(2)明らかな偽りが述べられている本文事例…第一コリント5・1 《聖書本文の検証 第一コリント5・1参照》
★TRの読み方 :《ギリシャ語》「オノマゼタイ」(名が称[とな]えられる)
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「異邦人の間でも名を称えられないような淫行」(TR新約聖書)
- 「such fornication as is not so much as named among the Gentiles」(…名を称えられない)(KJ版聖書)
★非TR聖書本文の読み方 :《ギリシャ語》…★「該当箇所のギリシャ語」が存在しない
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「その不品行は、異邦人の間にもない…」
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「here is sexual immorality among you, and of a kind that does not occur even among pagans」(NIV)
- 「それは、異邦人の間にもないないほどの淫らな行いで、」(新改訳聖書2017)
- 「それは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、」(新共同訳聖書)
《問題点》
父親の妻を妻としている男があり、それは、異邦人でさえ、そのことについて口にすることのないような淫行であると報じられています。
ところが、非TR聖書本文は、「このタイプの近親相姦は、異邦人の間でも存在しなかった」と断言しています。
それは明らかな偽りです。 |
■(3)重要な神のことば(宣教命令・イエス様の御名の力)を広範囲に削除している事例…マルコ16・9〜20
《聖書本文の検証 マルコ16・9〜20・B-4・H-4・H-5・H-6・H-7参照》
●TR聖書の訳例
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「(マルコ16・9〜20をすべて含む)」(TR新約聖書)
- 「(マルコ16・9〜20をすべて含む)」(新契約聖書)
- 「(マルコ16・9〜20をすべて含む)」(明治元訳 新約聖書)
- 「(マルコ16・9〜20をすべて含む)」(KJ版聖書)
■非TR聖書の訳例
ネストレ版/UBS版聖書の訳例
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《新改訳聖書》(非TR)
- 新約聖書はネストレ版本文準拠
★マルコ16・1〜8の扱いとは異なり、マルコ16・9〜20 の箇所は括弧(かっこ)付の扱いにされている!!
《共同訳聖書》(日本聖書協会 JBS)
《新共同訳・口語訳・文語訳》も同様(非TR)
- 新約聖書はUBS版本文準拠
★マルコ16・1〜8の扱いとは異なり、マルコ16・9〜20 の箇所は括弧(かっこ)付の扱いにされている!!
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《問題点》
現代版聖書は、おもにバチカン写本・シナイ写本に由来しており、この二写本がマルコ16・9〜20を含んでいないとされるため、上記のような扱いが生じています。
マルコ16・9〜20を含むギリシャ語写本は1800以上ありますが、含んでいないものは三写本だけです。
その三写本以外のすべての写本にマルコ16・9〜20があります。
《マルコ16・9〜20を含むもの》
- 1800以上のギリシャ語写本のうち、三写本以外のすべての写本
- 約8000のラテン語の小文字写本
- 約1000のシリア語版の写本
- 2000以上のギリシャ語聖句集のすべて
- パピアス(紀元100年ごろ)の引用
- 殉教者ユスティヌス(150年ごろ)の引用
- イレナエウス(180年ごろ)の引用
- テルトゥリアヌス(195年ごろ)の引用
- ヒポリュトス(200年ごろ)の引用
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一方、マルコ16・9〜20を含まない三写本は、こうでした。
《マルコ16・9〜20を含まない三写本》
- シナイ写本(四世紀)…書かれた後で消された痕跡がある
- バチカン写本(四世紀)…空欄が残されている
- 一つの小文字写本(十二世紀)
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これらのことから明らかなように、「書き写す元となった、より古い写本には、その12の節(マルコ16・9〜20)が確実に含まれていたにちがいありません」(ジョン・W・バーゴン師)
■つまり、
- エウセビウスが『50冊の聖書』の作成に使った『元の聖書』は、シナイ写本自体に書かれている記述から明らかなように、『オリゲネスの著作』でした。
- エウセビウスは、書き写すことを依頼した筆記者たちに対し、「マルコ16・9〜20の箇所を書き写すことをしないように」という指示を、どこかの時点で出したと考えられます。
- シナイ写本の筆記者は、その箇所を「誤って」(あるいは、意図的に)書き写し、その後で、本人あるいは別のだれかが「消した」と考えられます。
- バチカン写本の筆記者は、その指示に従い、書き写すことはしませんでしたが、そのスペースを、あえて空欄として残したと考えられます。
■いずれにしても確かなのは、
- 筆記者たちが書き写す際に手元にあった『元の聖書』には、マルコ16・9〜20が存在していたことと、
- 聖書改ざん者であったオリゲネスでさえも、マルコ16・9〜20を削除していなかったことです。
つまり、マルコ16・9〜20は確かに聖書の一部であり、真の神のことばなのです。
こうして明らかなように、マルコ16・9〜20の箇所が削除された聖書が登場したのは、エウセビウスがコンスタンティヌスに50冊の聖書を用意した時だったのです。
それ以前は、真の聖書にも、オリゲネスの『改ざん聖書』にも、マルコ16・9〜20は存在していたのです! |
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