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ギリシャ語聖書のシナイ写本
その手紙の筆者はトリゲレス博士(注2)によって書かれた書簡からいくつか引用しており、その中で、次の文章が書かれています。
ここで言及されているその写本は、シナイ写本と呼ばれているものであり、今やティッシェンドルフ博士の編集の下で、ロシア政府の費用負担により発行されています。 トリゲレス博士が私の『話』と呼ぶものは、これまで一度も発行されてなく、また、その紳士は何らかの間接的な媒介を通してしか、そのことについて聞いたことがないはずですから、トリゲレス博士にも、また貴紙の読者たちにも、その『話』を私自身から直接知ることは興味深いことであるかもしれません。 私はそれをできるだけ簡潔に述べることにします。 ■ロシア皇帝への贈り物となるはずであった写本 1839年の終わり頃、私のおじであり、アトス山にあるパンテレイモン修道院の霊的な長であるベネディクト師は、ロシア皇帝ニコラス一世に、その聖なる山から何らかの贈り物を献げることを望んでいました。
受け入れられてもらえそうな所有物が何もなかったため、彼は報道官のプロコピウスとロシア人修道僧のパウルに相談しました。 そして彼らは旧新約聖書を書き写した一冊の写本(コピー)に決めました。 古代の様式にしたがって書かれ、大文字で皮紙に書かれたものです。 その写本と、あの七人の使徒的教父たち(バルナバ、ヘルマス、ローマの主教クレメント、イグナティウス、ポリカルプ、パピアス、およびアレオパゴス会議員ディオニシウス)の書き残したものとを合わせて金色に製本し、皇帝に献げることを彼らは提案しました。 それから、その修道院のプロの筆記者であるディオニシウスがその仕事を引き受けるよう請願されましたが、その仕事は非常に困難であり、そうしたくないと言って断りました。 その結果、私自身がその仕事を始めることを決意したのです。 特に、私の敬愛するおじがそれを熱心に願っていたからです。 それから私は、アトス山(パンテレイモン修道院)に保存されている聖書の主要な写本を調べてから、書き写す作業を実行し始めました。 学識あるベネディクト師は旧新約聖書のモスクワ版(著名なゾシアス兄弟により発行され、ギリシャ人に献げられたもの)を取り、それを古代の数々の写本で照合し、それにより多くのまちがいを明らかにしました。 その後、彼は、それを私に書き写すよう私の手に渡しました。 それから私は、その新旧訳聖書を受け取り、まちがいを除きました(ただし、古いスペリングは変えないままでした)。 ■ほとんど空欄のきれいな皮紙 すると、皮紙が不足したため、私はベネディクト師の許可を得て、その修道院の書庫から一冊の大きな本を選択しました。 それは古代風に製本されていて、ほとんど空欄であり、その皮紙は著しくきれいであり、そして美しく仕上がっていました。 見かけでは、それは何世紀か前に用意されたもののようでした。 おそらく、その修道院の筆記者か、その長によるものであり、(ギリシャ語で)『パネジリック(賛辞)のコレクション』と刻まれてありました。 また、短い講話も書かれてありましたが、それは時間の経過により大きく損なわれていました。 ですから、私は、この本を入手し、その講話を含むリーフを取り除き、また、時間の経過や虫食いで損なわれているそれ以外の何枚かのリーフを取り除いたりすることによって、その用意をしました。 その後で、私は私の作業を開始しました。 初めに、私は旧新約聖書を書き写し、それから『バルナバの手紙』、『ヘルマスの牧会文書』の初めの部分を、大文字で、『アムフィデクシオス』として知られる筆記スタイルで書き写しました。 けれども私は、残りの使徒的文書を書き写すことは辞退しました。 なぜなら、皮紙の供給が不足したからです。 そして私は、ベネディクト師の死によって私が受けた深刻な喪失感の中で、この作業をその修道院の製本者たちにただちに引き渡しました。 表紙の交換のためにです。 その元の本の表紙は木で造られており、皮のカバーが付いてましたが、私は便宜上、それを取り外していたのです。 そして製本者が表紙の交換をした後、私はそれを私の所有としました。 ■聖カタリナ修道院の図書館へ送られた写本 その後、しばらくして、私はコンスタンチノープルに移り、その作品を、主教アンシムスとコンスタンティウス総主教に見せ、それを書き写した理由を彼らに伝えました。
私はそれに応じて、そうすると約束しました。 コンスタンティウス師は以前はシナイの主教でした。そして、その職を辞してから、彼はふたたびその場所の永久的な主教となっていました。 その後、まもなく、私は、あの著名なコウンテス・エトリングおよび彼女の兄弟A.S.ストゥーツァスの保護下に置かれました。二人の総主教の協力によってです。 けれども、私はオデッサに向けて出発する前、アンティゴノス島に渡りました。 コンスタンティウス師を訪ねるため、また、その写本をシナイ山の図書館に献げるという私の約束を果たすためにです。 ところが、その総主教は不在でした。その結果、私は、彼のためにその小包に手紙を添えてそこに残しました。 彼は帰宅するや、次の返答を私に書き送りました。
私は上記の手紙を受け取った後、またしてもこの総主教を訪ねて行きました。 彼は私に、このうえなく親切な、そしてこのうえなく父親のようなアドバイスを与えてくれました。 またストゥーツァス宛の手紙もです。 その後、私はコンスタンチノープルに戻りました。そして1841年11月、私はそこからオデッサに行きました。 1846年、私はまたコンスタンチノープルに戻りました。 その時、私はすぐにアンティゴノス島に渡りました。 コンスタンティウス師を訪ねて、大文字写本の大きな包みを彼の所有とするためにです。 彼は私をこのうえなく親切に受け入れ、私たちは多くのさまざまなテーマについて語り合いました。 とりわけ、私が書き写したものに関してです。 その時、彼は私に、しばらく前に彼がそれをシナイ山(聖カタリナ修道院)に送っていたことを知らせてくれました。 ■大いに改ざんされていた写本 1852年、私自身が、それを、そこで見ました。 そして、その図書館員に、その修道院がどうやってそれを入手したかを私に知らせてくれるよう懇願しましたが、彼はそのことについては何も知らないようでした。そして私も何も言いませんでした。 ところが、私がその大文字写本を調べると、それが大いに改ざんされており、あるべきはずの外観より、いっそう古い外観を呈しているのを見出したのです。 ニコラス皇帝への『献呈の辞』は、その本の最初に書かれていたはずなのに、取り除かれていました。 その後、私は、私の文献学的な調査を開始しました。というのも、その図書館には、私が調べたいと思っていた貴重な大文字写本がいくつかあったからです。 それらの中で私が見出したのは、ヘルマスの牧会文書や、聖マタイによる聖なる福音、あの異議を唱えられているアリステスからフィロクテテスに当てた手紙(すべて、第一世紀のエジプトのパピルスに書かれているもの)、および、その他の注目に値する数々のものです。 このすべてのことを、私はコンスタンティウス師に伝え、その後、私の霊的な父であるアレキサンドリアのカリストラトゥス師にも伝えました。 ■ティッシェンドルフが持ち去った『シモニデス写本』 こうして、『シモニデス写本』についての短くも明らかな説明がおわかりのはずです。 ティッシェンドルフ博士は、どのようにしてか私は知りませんが、シナイ(聖カタリナ修道院)で、この写本を持ち去ることを考え出したのです。 《ティッシェンドルフ》 ティッシェンドルフが書き写した最初のものを、私はおよそ二年前に見ました。 それは、トリゲレス博士の友人であるニュートン氏により、リバプールで私の手に入りました。 それを見た時、私はすぐに、私自身の作品であるとわかり、すぐにそのことを彼に話しました。 上記のことは、有名なシナイ写本の起源と歴史についての真実の言明です。 このシナイ写本を、ティッシェンドルフ博士は学術界に、『第四世紀の大文字写本』として押しつけてきたのです。 ■現存する証言者たち 今、私は一つか二つだけ述べることにします。 聖パンテレイモン修道院のあのプロの筆記者はディオニシウスでした。 また、その本をアンティゴノス島からシナイに運ぶべく総主教コンスタンティウス師によって送られた修道僧の名前は、ゲルマヌスでした。 その本は、私が所有してしていた間は、多くの人々に目撃されました。 そして、それはハジ・ジョン・プロドゥロモス(父プロドゥロモスの息子)によって注意深く精読されました。 彼はトレビゾンドにあるギリシャ教会の奉仕者でした。 ジョン・プロドゥロモスは、コンスタンチノープルのガラタスでコーヒー・ハウス(喫茶店)を営んでいました。 おそらく、今でもそうしているはずです。 あの大文字写本の受領を記している総主教コンスタンティウス師の受領証は、25000ピアストル(通貨)といっしょに、コンスタンティウス師により祝福として私に送られました。 それは執事ヒラリオンによって私のところに届けられました。 こうして名前の挙げられている人々はみな、今でも生きているはずであり、私の言明が真実であることを証言できるはずです。 ■印・筆跡・イニシャル… その大文字写本の内的証拠については、私は今は述べないことにします。 古文書学を学んだ人ならだれも、それが現代の大文字写本であると、すぐにわかるはずです。 ただし、私のおじのベネディクト師がその大文字写本の多くの箇所を修正したことを述べておきます。 また、それは複製(再コピー)されることが意図されていたので、彼は多くの文字に印を付け、それらの文字に光が当てられるようにしました。 私のおじの筆跡で修正された箇所を、もちろん私は指し示すことができます。 筆記者ディオニシウスの筆跡で修正された箇所も、そうであるようにです。 さまざまな箇所で、私は欄外に、私が『読み方』などを採用したさまざまな大文字写本のイニシャルを書き込みました。 それらのイニシャルはティッシェンドルフ博士を大いに困惑させたようです。 彼はそれらの説明をする非常に巧妙な方法をいくつも発明しています。 最後に、私は、その大文字写本の中の二つの特別なページを指摘することができます。 ただし、私はそれを何年もの間見ていません。その中に、それを私が書いたことについて全く疑う余地のない証拠が含まれているのです。 ■この手紙を公開することの唯一の動機
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(注1) F.J.A.H.は、フェントン・ジョン・アンソニー・ホート(ウェストコットとホートとして知られる二人のうちの一人)のイニシャル。 (注2)トリゲレスは聖書に敵対する闘いの最前線にいた。特に、ギリシャ語新約聖書を激しく批判し、ウェストコットとホートと考えを同じくする人であった。シナイ写本がTR(Textus Receptus)の信用を傷つけることで、彼はもろ手を広げてシナイ写本を歓迎した。 |
■ ティッシェンドルフ
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●歴史Q 偽造された写本
1 偽造写本の"出現" 2 白いシナイ写本・ 3 だれがシナイ写本を 4 色付けされたシナイ写本 5 シナイ写本の意図的な削除 6 偽造写本『2427』の正体 7 ティッシェンドルフが持ち去った 8 ティッシェンドルフに抜き取られた 9 シナイ写本・バチカン写本_ 10 バチカン写本・シナイ写本の構成 11 外典を含むバチカン写本・シナイ写本 12 マルコ16・9〜20が無い写本 13 2写本の検証1 14 2写本の検証2 |
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聖書の歴史V 偽造写本から"ねつ造"された |
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